市庭古墳(平城天皇陵)
市庭古墳(平城天皇陵)
いちにわこふん(へいぜいてんのうりょう)
前方部を削平された前方後円墳
いちにわこふん(へいぜいてんのうりょう)
前方部を削平された前方後円墳

市庭古墳(平城天皇陵) 拝所
(南側より) 古墳探訪記241回目は奈良市の市庭古墳です。かつては直径100mを超える大円墳と考えられていましたが、発掘調査によって、平城京造営の際に前方部が削平されてしまった前方後円墳であることが判明しました。前方後円墳としての規模は全長250m、後円部径147m、前方部幅164mを測り、全国でも第14位の大きさとなります。墳丘からは葺石やくびれ部分の造り出しなどが検出され、円筒埴輪や動物などの形象埴輪も見つかっています。現在、古墳は第51代平城天皇の楊梅陵(やまももののみささぎ)に治定されています。
(南西側より)
また市庭古墳は平城京造営時に削平されてしまっている事から、奈良時代の段階で少なくとも皇族の天皇陵ではない、との認識が為されていたのかもしれません。天皇陵あるいは皇族の陵墓と認識されていたのであれば、古墳を破壊するような事は無かったと思われます。色々と謎を秘めた古墳です

市庭古墳 全景
現状は直径147mの円墳となっています(南西側より)
市庭古墳は出土した埴輪などから、築造時期は5世紀前半頃とされており、平安時代初期(9世紀初頭)の天皇である平城天皇とは年代が全く合っていません。平安時代初期の天皇の陵墓は不明な事が多く、平安京遷都を行った桓武天皇の陵墓ですら所在不明となって、豊臣秀吉の伏見城築城の際に破壊されてしまった可能性が指摘されています。
平城天皇は元来病弱な体質であった事から、弟の嵯峨天皇に譲位した後、嵯峨天皇と対立して、寵愛していた藤原薬子(くすこ)の一族と共に、嵯峨天皇に挙兵しましたが(薬子の変)、嵯峨天皇に先手を打たれて勝ち目がないと悟り、降参して剃髪したという人物です。剃髪後は平城京で余生を送ったようですが、埋葬地についてはよくわからず、江戸時代には前回紹介したヒシアゲ古墳が平城天皇陵とされたこともあったようです。宮内庁の治定が正しいとすると、平城天皇は昔からあった古墳に追葬されたことになります。
平城天皇(薬子の変の時は上皇)の次代の嵯峨天皇は徹底した薄葬思想の持ち主であり、自分の火葬骨を山の中にばら撒かせた、という程の天皇ですので、この時代あたりから、天皇の陵墓も簡素なものとなり、平城京のそばに元々あった古墳の一角に埋葬されたという事もあり得るかもしれません。しかし、文献上にはこのあたりの記載はないので、古墳を発掘しない事には、真偽の程は分かりません。治定の真偽を確認する意味でも、このような築造年代と被葬者の没年が明らかに乖離している天皇陵については、発掘調査を実施すべきかもしれませんね。
また市庭古墳は平城京造営時に削平されてしまっている事から、奈良時代の段階で少なくとも皇族の天皇陵ではない、との認識が為されていたのかもしれません。天皇陵あるいは皇族の陵墓と認識されていたのであれば、古墳を破壊するような事は無かったと思われます。色々と謎を秘めた古墳です
《参考資料》
・日本古墳大辞典(東京堂出版)
・検証天皇陵(山川出版社)
・検証天皇陵(山川出版社)
・大和の古墳を語る(六興出版)
🔳基本データ
所在地 :奈良県奈良市佐紀町
墳丘規模・形状 :全長250m、後円部径147m、前方部幅164mの前方後円墳だが、
現状は後円部のみ残存。
埋葬施設 :不明
出土物 :円筒埴輪、形象埴輪
築造時期 :5世紀前半頃
推定被葬者 :不明だが、現在、平城天皇陵に治定されている
所在地 :奈良県奈良市佐紀町
墳丘規模・形状 :全長250m、後円部径147m、前方部幅164mの前方後円墳だが、
現状は後円部のみ残存。
埋葬施設 :不明
出土物 :円筒埴輪、形象埴輪
築造時期 :5世紀前半頃
推定被葬者 :不明だが、現在、平城天皇陵に治定されている
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