ぶらりと歴史散歩

ぶらりと歴史に関係のある土地を訪ね歩き、気ままに記事にしていこうと思います。

石のカラト古墳

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石のカラト古墳
いしのからとこふん
平城山に築造された終末期古墳

石のカラト古墳 全景

(南より)


 古墳探訪記226回目は奈良市の石のカラト古墳です。奈良市北部の平城山丘陵の平坦地に築造された古墳で、珍しい上円下方墳という形状をした古墳です。カラトという古墳名は、古墳の石室(横口式石槨)が唐櫃(からびつ:音読みでカラト)に似ている事に由来するようです。カラト古墳という古墳は桜井市の艸墓(くさはか:別名 カラト)古墳(36回目紹介)があります。こちらも命名の由来は石室にある石棺が唐櫃に似ている事が由来となっています。カラト古墳が二つあり、区別するために、こちらのカラト古墳は「石のカラト古墳」と命名されたのでは?と思いますが、これは推測の域を出ません。

石のカラト古墳 測量図

(「奈良山-Ⅲ 平城ニュータウン予定地内遺跡 調査概報1979.3 京都市教育委員会」より)

石のカラト古墳 横口式石槨 測量図

(「奈良山-Ⅲ 平城ニュータウン予定地内遺跡 調査概報1979.3 京都市教育委員会」より)

 墳丘は2段に築成された上円下方墳で、下段は一辺13.8mの正方形であり、その上に直径9.2mの円丘が築かれています。封土は土を何重にも突き固めて構築していく版築で作られ、上下段併せての高さは約2.5mです。墳丘表面は拳大から人頭大ぐらいの河原石で隙間なく覆われていました。唐櫃に似ているとされた横口式石槨は凝灰岩を整形した板石を組み合わせたもので、床と天井はそれぞれ4枚ずつ、側壁は左右それぞれ3枚、奥壁1枚、入口の閉塞石1枚の合計16枚で構成されていましたが、過去の盗掘によって、天井部分の入口に近い側の石が1枚持ち去られており、ここが盗掘口と化していました。高松塚古墳のように壁面に漆喰が塗られていた可能性もありますが、盗掘口による風化によって、漆喰の有無はわからず、壁画もあったかどうかは不明です。
 横口式石槨の規模は、長さ2.6m、幅1.03m、高さは約1.05mと小さいですが、わずかに検出された遺物から乾漆棺(かんしつかん)が石槨の内部に安置されていたと推定されています。また横口式石槨の前面には墓道があり、平行に走る2本の溝が残っていました。これは石材を古墳に運び込む時に、コロが回りやすくするためのレール(木製)を敷いた痕跡ではないか、と推測されています。


発掘調査時の石のカラト古墳

天井石が1枚無くなっており、穴が開いた状況になっています
(「奈良山-Ⅲ 平城ニュータウン予定地内遺跡 調査概報1979.3 京都市教育委員会」より)

石のカラト古墳の上段の円丘


石のカラト古墳下段の方形出隅部分 


 石槨内は盗掘によって、荒らされていましたが、金・銀製の玉に銀製の太刀外装具が残っていました。また墳丘上からは須恵器の破片が出土しています。

 これらの副葬品や古墳の埋葬施設などから、古墳の築造は7世紀末~8世紀初頭と考えられています。乾漆棺や豪華な副葬品の断片などにより、かなり高位の人物が被葬者像として挙げられそうですが、日本書紀や続日本紀に平城山あたりに埋葬された皇族(天皇陵は別として)などの記載はなく、文献上の特定の人物の想定は難しそうです。


 石のカラト古墳は墳丘上を奈良県と京都府の境界線が走っており、古墳が奈良県と京都府にまたがっているという点で、墳丘の形状と共に珍しい古墳です。奈良県側では「石のカラト古墳」と呼び、京都府側では「カザハヒ(風灰)古墳」と呼ぶそうです。京都府側ではなぜ「カザハヒ古墳」と呼ぶようになったのか?と思うと興味が尽きません。石のカラト古墳は珍しい事の多い古墳です。


石のカラト古墳 全景

(北西より)

《参考資料》
・現地説明版
・奈良山-Ⅲ 平城ニュータウン予定地内遺跡 調査概報(1979.3 京都市教育委員会)
・大和の古墳を語る(六興出版)
・日本古墳大辞典(東京堂出版)

🔳基本データ

所在地     :奈良県奈良市神功町
墳丘規模・形状 :下段が一辺13.8mの方形、上段が直径9.2mの円丘の上円下方墳
埋葬施設    :横口式石槨(高松塚古墳の石槨に類似)
出土物     :乾漆棺の断片、金製玉、銀製玉、銀装太刀金具類、須恵器片など
築造時期    :7世紀末~8世紀初頭(終末期古墳)
推定被葬者   :不明だが、飛鳥時代~奈良時代初期の高位の人物が考えられる
アクセス    :下記マップ参照ください。