ぶらりと歴史散歩

ぶらりと歴史に関係のある土地を訪ね歩き、気ままに記事にしていこうと思います。

和泉黄金塚古墳

ぶらりと歴史散歩
和泉黄金塚古墳
いずみこがねづかこふん
景初三年の銘のある銅鏡が出土した前期古墳

和泉黄金塚古墳 全景

写真中央の碑の立っている所が後円部
(南東より)

 古墳探訪記225回目は大阪府和泉市の和泉黄金塚古墳です。大阪府南部にある信太山丘陵の先端に築かれた典型的な前期形の前方後円墳で、古墳の規模は全長94m、後円部の径57m、前方部幅34m、後円部の高さは8m、前方部の高さは6mを測ります。墳丘には二重に円筒埴輪をめぐらせており、斜面には犬の頭ほどの葺石がびっしりと積まれていました。葺石は今では腐植土と雑木に隠されていますが、築造当時は石塚のような状況を呈していたと思われます。また最近の和泉市教育委員会の発掘調査によって、周囲は盾形に区画されており、墳丘が2段築成であること、くびれ部から形象埴輪が出土しています。

墳丘上への道にはバリケードが築かれており

立入はできませんでした

バリケード越しに墳丘を見たところ

ちょうど右側が後円部になります
(墳丘内は立入禁止です・・・見学イベントなどで立入可能な時もあるようですが)

 この古墳は戦争中に本土決戦用の塹壕が掘られ、遺物が露出するなど荒廃していた状況を嘆いた当時17才の考古学者の森浩一氏が、6年間の準備期間を経て、昭和26年に同じく考古学者である末永雅雄博士と発掘調査を実施しました。古墳の後円部には3つの木棺が並んでおり、いずれも高野槙(こうやまき)が使用されていました。特に3つの棺の中でも中央の棺は長大であり、厚い粘土で覆われていました。東の棺の中には人骨が腐らずに残っており、被葬者は壮年の男性でした。東棺の中には銅鏡と玉の他、各種の武器や工具があり、武人的な色彩が強い副葬品でした。西側の棺では人骨は完全に腐朽して残っていませんでしたが、遺物は東棺と同じ、武人的色彩の強いものでした。中央の棺内にはおびただしい玉と一面の鏡、左右各1個ずつ腕輪がありました。

昭和26年発掘時の三つの棺の配置状況

向かって中央の棺があり、左側が西棺、右側が東棺になります

(カラーブックス「古墳」(保育社)より)

 中央の棺は長さが8.7mもある長大なもので、木棺に中には2個の碧玉製腕輪、銅鏡一面があり、その他は玉類で埋め尽くされている状況でした。勾玉だけでも29個、管玉や棗(なつめ)玉などが4つの塊となっていました。被葬者が身に着けていたのは首飾りと腰から垂れ下がった玉類で、他は、まとめて置かれていました。発見時に話題となった景初三年の銘が入った銅鏡は、棺の外側に鉄刀や鉄斧と共に埋まっていました。

 東棺の内部は男性の頭骨を囲むようにして、3面の銅鏡が置かれ、その横に碧玉製鍬形石や大型の水晶製切子玉、絹に包んだ鉄刀子などがあり、刀子(ナイフ)には中国の晋の銅銭がさび付いていましたが、いずれも宝器ばかりでした。

和泉黄金塚古墳 航空写真

(昭和45年(1970年)頃撮影)

(カラーブックス「古墳」保育社より)
         

和泉黄金塚古墳 航空写真

(現地説明版より)

出土した景初三年の銘が入った銅鏡

(現地説明版より)

 銅鏡に年代の記載なった景初三年については、中国の魏の年号であり、西暦にすると239年に該当します。この239年には邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使者を送り、「親魏倭王」に任じられ、銅鏡100枚を与えられたという事は、中国の史書「魏志倭人伝」に記載された日本史の有名な出来事です。この頃の中国は、後漢が滅び、魏・呉・蜀の三国が互いに覇権を争って戦いを繰り広げる三国時代でした。
 鏡の銘文は方形区画に1字ずつ記載されていましたが、最初の4文字が景初三年の銘でしたが、2文字目の「初」の下半分が腐食で判読しづらい状況でした。しかし魏で使われていた墓誌名の「初」の書体から、類推することにより「初」と確認できたそうです。
 この鏡が中国で製造され卑弥呼に与えられたものか、国内でまねて作られた仿製品(ぼうせいひん)であるかは定かではありません。もし景初三年の銘がある銅鏡が卑弥呼が与えられた銅鏡の一つであることが判明すれば、国宝級の発見となるかもしれませんし、この古墳の被葬者(中央の棺の被葬者はおそらく女性)は卑弥呼と何らかの関係性があり、邪馬台国畿内説の可能性が高くなるのかもしれません。しかし、そのようなニュースは聞いたことはありませんので、鏡の生産地については不明なままなのかもしれません。

 和泉黄金塚古墳は昭和40年代頃の航空写真では、水田に囲まれている状況でしたが、現在、古墳周囲は果樹園のようになっており、雑草も生い茂っていて、周囲から古墳の墳丘を眺めるのは難しく、古墳の全景を撮影するのに苦労しました。墳丘周囲をぐるぐる回って、ようやく撮影できた写真が冒頭の全景写真になります。残念ながら、墳丘は保護の為でしょうか、立入禁止となっていて、墳丘上から写真を撮る事はできませんでした。
 景初三年銘の銅鏡をはじめ、多くの遺物が出土し、考古学的に貴重な古墳である事から、平成20年(2008年)に国史跡に指定されました。

和泉黄金塚古墳 遠景(北東より)

中央の丘の上が和泉黄金塚古墳

《参考資料》
・現地説明版
・カラーブックス「古墳」(森浩一著 保育社発行)
・日本古墳大辞典(東京堂出版)

🔳基本データ

所在地     :大阪府和泉市上代町
墳丘規模・形状 :全長94m、後円部の径57m、同高さ8mの前方後円墳
埋葬施設    :後円部の3つの粘土槨(木棺あり)
出土物     :景初三年銘の銅鏡(画文帯同向式神獣鏡)、勾玉、武具、
         管玉、車輪石、鍬形石など多数(銅鏡は東京国立博物館所蔵)
築造時期    :4世紀末頃
推定被葬者   :不明だが、大和王権とのつながりの強い在地豪族か?
アクセス    :下記マップ参照ください。